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森 雅之(もり まさゆき、1911年1月13日 - 1973年10月7日)は、北海道上白石村(現在の札幌市白石区)生まれ、東京都出身の俳優。父は小説家の有島武郎。本名は有島 行光(ありしま ゆきみつ)。 == 略歴 == 1911年、当時札幌で教職を勤めていた有島武郎と、陸軍大将・男爵神尾光臣の娘でもある母安子のもとに、長男として生まれる。他に弟が2人いた。 3歳まで札幌で過ごし、1914年、旧旗本屋敷だった東京麹町の有島邸に家族揃って転居。1916年には母を結核で、1923年には父を心中で失い、弟2人と共に叔父の有島生馬らの下で育てられる。 1922年に番町小学校から成城小学校に転校し、1931年に旧制成城高等学校を卒業、1931年に京都帝国大学哲学科美学美術史専攻に入学するが中退。 成城高等学校時代から舞台俳優を志し、1930年、築地小劇場の『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』にエキストラ出演する。 1931年、慶応仏文の金杉惇郎、フランス帰りの長岡輝子を中心に都会派のモダンな学生劇団「テアトル・コメディ」が結成され、成城高校の有島行光(森雅之)も参加。第1回公演から芸名の森雅之を名乗る。『芝居は誂向き』などの演技で将来を嘱望されるが、胸部のカリエスのため、1932年から4年間ほど闘病生活を送った。 1937年、岩田豊雄らの文学座の結成に加わり、本格的に役者で身を立てる決心をする。コメディや恋愛劇の洗練された演技で注目を浴び、北里柴三郎を演じた『怒濤』の老け役で絶賛された。1940年に杉村春子、三津田健と文学座の常任委員に就くが、1944年に文学座を退座。 戦後は1945年に戦後初の新劇『桜の園』に出演した後、東京芸術劇場(東芸)の結成参加を経て、1947年に劇団民藝の前身の「民衆芸術劇場」(第一次民藝)の結成に加わる。滝沢修、宇野重吉らと戦後の新劇界を牽引するが、1949年、思想的な内紛に嫌気がさして「民衆芸術劇場」を退団。その後の劇団民藝(第二次民藝)にはフリーとして公演に参加。 当初、映画出演に消極的だったが、1942年、31歳のとき、文学座が提携出演した東宝作品『母の地図』で映画デビューを果たす。 1947年、松竹映画『安城家の舞踏会』の没落華族の長男役で注目され、本格的に映画界に進出。1950年代を中心に溝口健二監督作『雨月物語』や黒澤明監督作『羅生門』、成瀬巳喜男監督作『浮雲』などの作品で知的でニヒルな二枚目を演じ、演技派のトップスターとして活躍した。また、出演映画が米国アカデミー賞と世界3大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)のすべてで受賞しており、4冠を達成している(下記参照)。 演劇界では、1950年代以降はフリーの立場で文学座などの新劇の舞台に立ち、また、新劇の枠をこえて劇団新派や東宝現代劇などの芝居にも積極的に出演した。 1956年、芸術祭奨励賞受賞作『勝利者』でテレビに初出演し、以降はテレビドラマにも活躍の場を広げた。 1973年、慈恵医大付属病院で直腸癌のため死去。享年62。1973年の東宝現代劇の新春特別公演『女橋』の父親役が最後の舞台出演、同年9月8日放送のNHKドラマ『コチャバンバ行き』が遺作となった。両作出演時には、既に病魔に冒されており、その身を押しての仕事であった。 舞台出身の名優として、黒澤明監督と溝口健二監督の国際映画祭受賞作品(『羅生門』、『雨月物語』)で主役を務め、また、成瀬巳喜男監督の『浮雲』での演技によって第1回のキネマ旬報主演男優賞を受賞した。生涯、役者としての芸を、ジャンルを問わず貪欲に追い求めた。 1995年、キネマ旬報が行なった「日本映画オールタイム・ベストテン」の「男優部門」で第1位に選出されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「森雅之 (俳優)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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